前回に引き続き、トルストイ先生の「復活」における裁判を観察します。
裁判官、検察官に続き、弁護人も以下のように小馬鹿にした目線で描かれています。
…「続いて、弁護人が立ち上がって、口ごもりながらおどおどと弁論を始めた。彼はそこで雄弁の才を示そうと思い、大局的見地から見た事実の概説を試みたが、この心理的領域にわたる彼の壮挙はうまくいかなかったので、聞いているほうが恥ずかしくなるほどであった。裁判長は彼の苦境を救ってやろうと思って、事件の本質からあまりそれぬようにと注意したくらいである。」…
この弁護人も一生懸命なのですが、どうも自信がなく、また弁論の内容もどこか的外れであったようです…。もっともこれは現代の裁判にもあてはまるようで、実際に最近のアンケートでは「弁護人の声が小さく、自信が無さそうに見えた。」という意見が少なからずあるそうです。…私も気を付けようと思います!
と、ここまでは裁判官、検察官及び弁護人それぞれがトルストイ先生から攻撃されてきましたが、最後は、市民の中から選ばれた陪審員にもその攻撃の手が向けられます。
なんとこの陪審員たちが、判決意見書の結論の部分を書き間違えてしまうのです。そして、十名程度いる陪審員たちの誰一人としてそのミスに気が付きません。それにより、被告人には、彼らが議論し想定していた罪よりもかなり重い罪が宣告されてしまうのです…。
実際にこういう裁判があったのだとしたら、恐ろしいことですね。
現代の日本では、現職の裁判官と、選び抜かれた裁判員の合議により評議が行われるため、このようなことは万が一にでも起こらないと言えるでしょう。
このように「復活」の裁判は、浮気相手の事ばかり考えている裁判長や、実力無きナルシストの検察官や、自信なさげな弁護人による審理がなされ、挙句の果てには陪審員たちが結論を書き間違えてしまうという、目も当てられない有様となっています。
…トルストイ先生、この描きようは、さすがにひどすぎやしませんか?
―弁護士の徒然草―
この「復活」の中でも引用されているのですが、ルネサンス期の大作家ラブレーが、こんな話を書いているそうです。
…「ある法律家のところへ訴訟がもちこまれたとき、彼はありとあらゆる法律の条文を指示し、無味乾燥なラテン語の法律書を二十ページも読んで聞かせた後、陪審員たちに「サイコロ」を投げることを提案した。もし偶数が出たら原告が勝訴で、奇数が出れば被告の勝ち、というのである。」…
ほとんど笑い話のようですが、一般の方々から見た法律はこのように映る部分もあるのかもしれません。私自身も、法律の勉強を始める前までは似たような事を感じていた節があります。
トルストイ先生やラブレー先生が危惧していたとおりになってしまわないために、私たちも気を引き締めなければなりませんね。
弁護士 佐山洸二郎
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